覚書

 また春が来る。

 和輝を穂に預けた朝日は一人、“あの渓谷”へ訪れる。

 中央には樹齢百年を超えていると思えるほどの桜の木が立っている。人の目の高さに下がる細い枝に近寄り蕾の先にそっと指を触れる。

 淑やかに笑う彼女の声が聞こえた気がした。

 強烈な寂しさ。強烈な侘しさ。強烈な悲しさ。強烈な悔しさ。

 懇願してももう戻らない。喪ってから二年以上経過した今でも引きずる自身が情けなくなる。

「はぁ……聞いてくれよ。あのヒト、“奥さん”に逃げられたんだよって言われたぞ。和に聞こえたらどうすんだってな」

 “ダミー”と言い続けるリングを嵌めた左手でをそっと幹に触れて目を閉じる。リングを埋めた場所だからか、なんとなく“彼女”を感じるような気がした。