覚書

 上官は杯を突き出し、凪に酌を注ぐことを要求する。酒の臭いが充満する会場から早々に立ち去りたい気持ちを堪え、上官の傍へ寄る。

 ゆっくりと注いでいく。相当酔いが回っているのか杯を持つ手は左右に揺れる。

 杯の縁に液体が落ちる。器からはみ出た熱を加えたそれは男の膝の上へ落ちていく。

「あっづ!」

 男は飛び跳ねる。凪は声は出ないが口元で謝罪の言葉を述べつつ乾いた布を上官に渡す。しかし男の顔はみるみる赤くなり、鬼のような形相で凪に怒鳴りつける。

 

 --ペットの躾がなっていない。ならば……。

「こいつを外に連れてけ!」

 付き人共は怯えながら凪を退出させる。相当腹の虫が悪いのか、部屋の障子を拳で数枚破り、凪の後を追った。

 

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 声が出ないことを上官に共有されていなかった。足をいくら痛めつけても叫ぶことも許しを請うことも無い凪に違和感を覚えながら何度も何度も何度も痛めつけた。

 それでも声を出さない凪に次第に怒りは冷めていき、もういいの一言で三条家の武官の宿から雑に放り出される。

 艶やかな壁に手を添え、痛む両足を引きずりながら家へ戻る。退勤の記しを残さないで離れてしまった今日(こんにち)の業務分は無給となる。この生活が一日伸びただけ。そのように言い聞かせながら一歩ずつ歩みを進める。

 鷹司家に戻る。玄関先に誰かがいる。

 彼は丁度、帰りの遅い凪を心配し、屋外に出たところであった。彼女の晒された足元に目が留まる。何があったのかを察し、彼女の元へ寄った。

 先刻まで鋭く、叩きつけるような音が家まで届いていた。何かでいたぶられていたのだろうと察する。

 涙の跡が無い。弱りきり、よろける体を優しく抱きとめた。最悪の事態に陥る前に何とかしなければ。凪に悟られないように遠くを見つめ、改めて決意する。

 言葉には出せなくても、表情だけで様子は分かるものだ。

 その場に立っているだけでも辛そう感じる。それでも彼女は主に世話を焼かないように抱かれる腕から離れ、屋内へ向かおうと誘導する。

 凪から歩きだそうとしない。小柄な彼女は朝日の顔を見上げる。

 主から先へ。弱々しそうな表情からそのように読み取れる。

 ーー怪我しているのは凪の方なのにな。

 健気すぎる使用人を見ていられなくなり後ろに回る。彼女の背と膝裏に腕を入れ、抵抗される前に横に抱く。突然の出来事に混乱する凪を無視し、椅子のある部屋へと向かって行く。

「足出すんだぞ」

 客間の椅子に座らせた彼女に指示を出す。足元とは言え男性に肌を晒すことに抵抗感を感じながらも主の指示に従い、恥ずかし気にひざ元まで裾をあげる。

 それを見た主は血の気が引いた。無数の擦り傷や切り傷で血が滲み、右足の脛からはまだ血を流していた。所々に内出血や青くなっている所、水ぶくれができている場所もある。

 ーーやりすぎだろ。

 彼らが何に対して鷹司家に恨んでいるのかは興味は無い。きっかけは些細な失敗であろう。ただ、好意を寄せている女性に対し、必要以上に罰を与えていることは事実だ。握り拳はギリギリと音が鳴るほど握りしめる。